文藝春秋1999年5月号354〜370頁

エホバ、オウム、ヤマギシ追跡ルポ

カルトの子

 

―心を盗まれた家族―

両親との離別、殴られる恐怖、イデオロギーの注入……
小さな脳に刻まれたトラウマは癒されるだろうか
 
米本和広(ルポライター)

「いま、サタンが暴れまわっちょうけんね。この前、久しぶりに学校に行ったら、 トイレに煙草の吸い殻がいっぱい捨てられちょうだ。今の中学生が荒れちょう のはやっぱ、サタンのせいだわね。」

 中学3年生の中田智彦は出雲弁まるだしで、ハルマゲドン(地球の滅亡)が 近いことを語った。

 彼の両親は、輸血拒否裁判で社会的関心を集めた宗教法人「ものみの塔 聖書冊子協会」の、一般的に「エホバの証人」と呼ばれる信者である。一九二六 年に日本に上陸したアメリカ生まれのこの団体は世界に六百万人、日本 に二十二万人の信者を誇る。主な活動は、聖書を独自に解釈した『ものみの塔 』という冊子(毎週世界同時発行)を使っての訪問伝道と学習会で、智彦も 小さいときから母親に連れられ、家々を回った。

 といっても、彼は熱心な二世信者ではない。小学校五年生になった頃から宗 教活動には参加していないし、そのことがもとで父親とは毎日のように殴り 合いの喧嘩をしてきた。中学生らしからぬ筋骨隆々とした体は、父親に勝つ ため鉄下駄、鉄アレイなどで日頃から鍛練してきた成果だという。首筋の傷 跡を問うと、笑いながら教えてくれた。

「これ?父さんに首を絞められたときの傷だわね」

 智彦は中二から不登校になり、エホバが嫌で母の実家に逃げることがしば しばあった。だが、四年以上も教団から離れていたというのに、いまだ終末 思想を信じていたのである。

 家族は両親に高一の兄と中一の妹の五人。智彦以外は熱心な信者である。 智彦と父親の“闘い”が起きることを除けば、平穏な家庭だという。夕食の 前には彼も、家族と一緒に頭を垂れお祈りをする。食事をしていると、テレ ビから暗いニュースが流れてくる。内戦、官僚汚職、少年の殺人事件、そ のたびにきまって両親は真顔でこんな会話を交わす。

「またサタンが暴れちょう。ハルマゲドンはもうちかいわぁー。早くみんなを 助けてあげんと。ほんとに時間がないけん」

 エホバの証人の聖書解釈によれば、神(エホバ)とサタンとの世界最終戦 争によって人類は滅びるか、病いも老いも苦しみもないバラ色の楽園が地 上に復活し、そこに信者と、聖書の教えを知った人だけが蘇り、永遠の命 を手にすることができるという。それだからこそ、エホバの証人たちは聖書 を一刻でも早く広め、みんなを助けたいと真剣に思っているのだ。

 智彦の母親は実は郷里にいる私の友人の姉である。彼女には高校時代 に何度か説教された覚えがある。

「なんぼベトナム戦争反対運動なんかやっても意味がないけん。もう少し したら人類は滅んで、戦死した人もそのあとに復活する楽園で暮らせるよ うになあけん」

 あれから約三十年――。 一九七五年とされていた教団の四回目にあたるハ ルマゲドンの予言はまたも外れたが、彼女はひるむことなく活動を続け、 三人の子をもうけ、立派なエホバの証人にしようとしてきた。

 智彦は「早く楽園がき来て欲しい」と願いながらも「本当に来るんだろうか 」と首を傾げるときがある。しかし、教団が実質的に禁止している輸血に対 する姿勢だけははっきりしていた。

「輸血されえだったら、死を選ぶわね。輸血されたら人格が変わってしまあ けん」

麻原彰晃の写真

 深沢美佳(高二)は九五年の夏にオウムから救出された。出家信者だった 母親に連れられ、母の実家がある島根県の出雲市駅に降り立ったところ を警察に保護されたのである。その後、美佳は児童相談所と養護施設で 社会復帰の訓練をしたあと、九八年の夏に父親のところに戻ってきた。父 親は一時期在家信者で、その後妻と別れ、子どもの救出に奔走していた。

 社会に戻ってからの美佳は不登校になることもなく、友達もでき、成績は 高校でもトップクラスになった。だが、父親の気分はいまだ晴れない。娘 はオウムのセミナーに参加しようとしたことがあったし、オウムで一緒だっ た仲間との交流も途切れていない。在家信者となった母親のところにも顔 を出している。それよりなにより、美佳の財布にはいまだ麻原彰晃の写真 が入っているのだ。

「上祐が出所したら、ひょっとしたら駆けつけるのではないか。それが不安で ならないんです。」
と、父親は表情を曇らす。

 いったい、オウムにいた子どもたちはどんな体験をしたのだろうか。

 上九一色村に強制捜査が入った日の映像シーンが今でも忘れられない。 ヘッドギアをつけた子どもたちが、機動隊員に抱えられながら、ぐったりし た表情で、ゆっくりと、サティアンの外に出てくる。あの子たちはいまどうし ているのだろうか。

 わずか四年前の出来事だというのに、地下鉄サリン事件があまりにも衝撃 的だったせいか、オウムの子に対する社会の関心は薄い。いや、オウムだ けに限らない。「カルト」「マインドコントロール」「洗脳」は日常会話でも使わ れる用語になったが、カルトの子どものことは全くといっていいほどわかっ ていない。

 子どもたちは自らの意志で特殊な集団に入ったわけではない。親の選択 によって、ふつうの子どもがしたことのないような体験をさせられただけの ことである。そんな子どもたちの行く末が気になってしかたがなかった。

 カルト内での生活は、親子関係は、その当時考えていたことは、カルトか ら出たあとの生活は……。疑問は次から次ぎへと湧いてくる。カルトの子 どもについて言及した日本の文献は一例を除きどこもなかった。そこで、 郷里のつてなどを辿り、エホバの証人、オウム、ヤマギシ会、ライフスペ ースにいた子どもや元カルトメンバーだった親たちに会い、疑問を解き明 かすことにした。

 最初に断っておくのは、カルトの定義である。八五年にカルフォルニア大学 で開かれた学会での定義をもとに、私なりに簡潔に示しておけば、次のよ うになる。

「カルトとは、ある人物あるいは組織の教えに絶対的な価値を置き、現代社会 が共有する価値観――財産・教育・結婚・知る権利などの基本的人権や 家族の信頼関係といった道徳観――を否定する集団である」

 カルトの親と子どもとの違いについても一言触れておきたい。

 大人たちはカルトに入ると人が変わったようになるが、それは価値観が一変 し自我(人格)が変容してしまうからである。彼らを「カルトからの回復」させる には集団に帰属する以前の自我(元の彼、彼女)を覚醒させることが基本となる。こ れに対して、カルト内で生まれたり、幼少時に入れられた子どもたちは目覚 めさせる本来の自我をもっていない。脳にインプットされたのはカルト内での 体験とイデオロギーばかりで、戻るべき自己がないのだ。

ムチで打てば楽園に

 子供たちの体験は、属していた集団の性格はまるで異なるのに、驚くほど似 通っていた。

 中田智彦の話から始める。

 彼はエホバの証人の教えをある程度信じながらも、その一方で父親と力で対 立してきた。矛盾した話だが、それは幼い頃から父親に暴力を振るわれてき たから、彼も対抗上力で歯向かうようになっただけのことだ。エホバの証人の 集会に行かない。集会でうるさくする。家庭での聖書研究会に熱心でない。 節分の豆まきなど教団の戒律を破る。そんなとき、いつも布団叩きで思いっき り叩かれるか、拳骨を見舞われた。兄や妹もやられたが、智彦だけは力で対 抗しようと考えた。

「ムチ(親の暴力のこと)がいやでいやでたまらんだったけん。小学校5年まで はいつもやられちょったけど、6年になってから闘うようになり、中一で互角。 今では両親と僕との二対一でやっちょうわね」

 智彦の父親がとりわけ暴力的というわけではない。父親は聖書の次の言葉を 忠実に実行してきただけのことである。

<子供を懲らしめることを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬ ことはない。あなたがむちで彼を打つならば、彼のいのちをよみから救うことが できる>(箴言二十三章)

 他のキリスト教団は箴言特有の誇張した表現と解釈するが、エホバの証人は 文字通り受け止め、ムチで打てば子供は楽園に復活できると信じているので ある。

 智彦の家ではムチは布団叩き、拳骨だが、多いのはガスのゴムホース、定規 、布団叩きだ。ムチの代用品がこうしたものに集中するのは、親たちの間で「 痛くて、跡があまり残らない効果的なものは何か」と情報交換された結果であ る。

 三十歳から四十年間近くエホバの証人だった兵庫県の進藤信子(六九)が「二 人のこどもたちにはどんなに謝っても、償いきれないことをしてしまった」と悔 やみながら、打ち明けた。

「毎週開かれるエホバの証人の集会は二時間にも及びますから、小さい子は 退屈して私語を発します。そうすると、叩くのです。私は一度に数回程度叩い ていましたが、ある人は一度で百回以上だと自慢そうに話していた。叩いてい るうちに次第に感覚がマヒしてくるから、そんなことができるのです」

 エホバの証人には数十人の単位で会衆と呼ばれる基礎組織があり、その会 衆ごとに「王国会館」(集会場)を持っている。

「王国会館にはお仕置き部屋があって、こどもが騒ぐとそこに連れていくので す。そうした部屋がなければトイレで叩く。ムチが備えつけられていないところ では持参する姉妹(女性信者)もいました」

「ギャッ、ギャッ」、凄まじい泣き叫び声が聞こえてくるという。「一回でみみず 腫れができるくらいの叩き方がベストだ」というから、子供たちはたまらず悲鳴 をあげる。

 埼玉の岡田良平(三四)は父の入信をきっかけに三歳からエホバの証人の子 供となり、四年前に組織から離れた。

「悲鳴を聞いた近所の人が警察に通報し、王国会館にパトカーが来たこともあ りました。 所沢で開かれた地域大会の会場にも懲らしめの部屋がいくつか用意されていま してね。悲鳴が外に聞こえていた。今から考えると異常そのものですよね」

 <懲らしめを差し控えてはならない>から、家での暴力も日常的だ。

 二十歳まで伝道訪問をしていたという静岡のある青年は唇を歪めた。

「どんなことをやられたのか、思い出したくないな」

 しつこく聞くと、渋々といった風に顔を背けながら答えた。

「中学まではやられ放題だった。格闘は禁止されているから、殴り返すことはで きない。それで、高校になってから家の中で思いっきり暴れるようになった。親父 は謝ったが、それで済むことじゃない」

 あとはどんなに質問しても頬をピクつかせ「もう触れたくない」というばかりだっ た。

 カルフォルニア大学の修士課程を経て日本で心理相談を行っている服部雄一 は、国内では数少ない解離性同一性障害(多重人格)の専門家であり、カルト の子供について実態調査を行った日本では唯一の研究者である。 彼が調べたのは『エホバの証人の児童虐待』(論文発表は九八年十二月)である 。それによれば三十九人の元信者のうち実に九〇%が子供を叩くように教えられ、 八〇%が集会などで体罰を目撃し、八五%が叩くように周囲から圧力を受けてい る。可哀想だとムチを打つのをためらっていると、周囲から「霊性が低い人、子 供をサタンから守れない人」と陰口をたたかれる。家族そろって楽園での復活 を願う本人には相当なプレッシャーになる。

 調査に応じたのはエホバの証人に批判的になった人たちだ。今では「子供に 申し訳ないことをした」と反省している。しかし、そういった人たちであっても、 <愛の懲らしめ>は一般的な体罰に過ぎず、子供を虐待したという認識はま るでなかった。

 服部は論文の中で衝撃的なケースを紹介していた。

 その母親は先輩の女性信者から「子供の中からサタンが出るまで、繰り返し子 供を水の中につけるよう」に教えられた。母親は途中で怖くなり二回だけでやめ てしまったが、子どもを救ったのに、彼女は「自分は霊性が低いのでは」とその 後相当長く悩んだ、というのである。

背中に熱湯をかけられて

 幸福会ヤマギシ会の児童虐待も凄まじい。

 九八年五月、ヤマギシ会から一人の少年が脱出した。

 彼はヤマギシ会が経営する集団農場の一つ、兵庫県加西市にある「北条実顕 地」(以下「村」)から北条中学校に通っていた。この月、中学校で修学旅行があ った。行く先は東京だった。少年は、昼過ぎ、自由行動となった原宿から一人抜 け出し、茨城県の取手市に住む祖父母の家に向かった。辿り着いたときには夜 の八時を回っていた。

 ヤマギシ会の「村」で生まれた彼は、学校と通学路以外の外の世界をまるで知 らない。番地を頼りに人の家を訪問した経験もない。そのため、原宿から地下鉄 千代田線で一直線のわずか二時間弱の道程に、八時間も要したのである。

 彼が脱走を考えたのは二つの理由からである。一つは、このまま「村」にいれば 高校進学を諦めなければならないこと、もう一つは暴力に耐え切れなかったこと だ。「(ヤマギシの暴力を)裁判で訴えたい」と手紙を出していたこともあった。

 小学生ではないかと思えるほど小柄な少年(中三)は、必死の思いで逃げてき たというのに覇気がなく、口は重かった。

「どんな暴力?……いっぱいあるけれど、竹刀で殴られたり、背中に熱湯をかけ られたり……いろいろあった。池の中に突き落とされたこともあった……」

 子どもを管理する「村」の世話係に口答えをするとすぐに暴力が振るわれた。 池に突き落とされたのは、草と間違え野菜を抜いたときだった。

 私が少年に会ったのは脱走した翌日の昼過ぎ。集団農場で暮らす両親が彼を 連れ戻すため、兵庫から茨城に向かっているときだった。

「もうそろそろこっちにお父さんたちがやってくるけど、連れ戻されたらどうするの」 と聞いたところ、とたんに全身を硬直させ、いつも暴力を振るうという一人の世話係 の名前をあげて、声を震わせた。

「あいつに殺される……『ここから逃げ出すようなことがあったら、捕まえて殺して やる』って言っていたから……」

 ヤマギシ会は児童虐待を目的とする集団ではない。彼らが目指すのは、七泊 八日のセミナー「特別講習研鑚会」(特講)を世界中の人に受講させ、人間から 我執を取り除き、幸福社会を実現することにある。

 人間から「我」を取り除けば、悩みや争いがなくなり、不幸を不幸と感じなくなっ てしまう。そうすれば「絶対幸福社会が到来する」。そう彼らは信じ、このやり方 を暴力を伴わない革命という意味でZ革命(究極の革命)と呼んでいる。ちなみ に、私自身も体験したが、特講は参加者の脳の神経回路を変容させるほどの、 ドラッグ体験と似たような快感をともなう強烈な「洗脳セミナー」だった(詳細は 拙著『洗脳の楽園、ヤマギシ会という悲劇』)。

 「特講」が革命の武器なら、<実顕地>と呼ばれる「村」は革命の拠点である。 特講を受け、村が理想郷に見えてきた人は全財産を提供して村人になる。我が なくなれば自他の区別がつかず、自分と他人・村人同士が一体となった感覚( 感覚の入力スイッチが切り替わった解脱状態)になる。ヤマギシが村を<一体 社会>と呼ぶのはそのためであろう。

 五六年に特講が始まり、最初の「村」ができたのはその二年後のことである。こ の四十年間で「村」は北海道から九州まで全国に三十七ヶ所を数えるまでにな り、人口は九十八年の名古屋国税局の大がかりな脱税調査のあおりを受けて 急激に減少していると伝えられるが、五年前の発表では、大人と子どもが半々 で合計五千五百人となっていた。

 ヤマギシと子どもの関係はこうだ。

 五歳から十八歳までの子どもを預かるヤマギシ学園(現在全国に十五ヶ所)が 「村」の敷地内に設立されたのは八五年のことである。

 特講で自我が変容し、学園謳い文句の<愛児の楽園>が脳に染み込むと、親 たちは「学園に入れば、誰とでも仲良しで、何でもできる子になる」というヤマギ シ側の説明を鵜呑みにし、子どもを学園に送り込む。特講後いきなり家族揃っ て入村するケースもあるが、多いのはヤマギシの会員となって地域で活動しな がら子どもを学園に送り、数年後に自分たちも「村」に入るパターンである。

 子どもを管理するのは世話役という名の村人で、女性の世話役に対しては子ど もたちは「○○(個人名)お母さん」と呼ばなければならない。学園では農業など の作業が中心で、勉強は一切行われていない。集団行動を旨とし、トイレ以外 個人的な行動は一切許されず、夜寝るときも二人一組の布団である。「暗黒社 会の我執がくっつくから」という理由で、子どもを社会と接触させるのは義務教 育の授業時間だけで、高校進学も友達の家に行くことも、部活も禁止している。

 世話係が日夜取り組むのは、子どもをZ革命が目標とする<無我執人間>に することだ。

 流行の文房具が欲しい、放課後友達と遊びたい、今日は農作業をしたくない。 こうした子どもたちの主張はすべて「我」と見なされる。自我が芽生えつつある 子どもから言葉だけで我を摘むことはできないから、必然的に暴力をふるうこ とになる。

 東京で暮らす山村大介(21)はヤマギシ会の会員である親の命令によって、中 学一年から学園に送られ、親の洗脳が解ける学園高等部(ほぼ一日中農作業 をする)一年の十月まで「村」にいた。家に戻ってから一年遅れで高校に入学し 、今は大学二年生である。

 大介が体験した世話役による暴力は、脱走した少年が体験したのと同じように 凄まじい。

「思いっきり腹を何度か殴り、うずくまったところを足蹴りにし、ぶっ飛ぶと、今度は 髪の毛をつかんで引きずり回す。それがいつものパターン。とにかくすごかったで す。泣いてもやめようとしないんだから。キレると世話役の目つきが変わる。こいつ 精神異常者かと思ったほどです。友達をハサミを振りかざして追いかけていたこと もあったし、金属バットを振り回していたこともあった」

 なぜ暴力を振るうのか、大介もわからないことが多かった。学校の昼休み時間に 宗田理の小説『ぼくらの七日間戦争』を読んでいることがわかったときにも、世話役 はキレたという。

善意の人ほど恐ろしい

 小二の夏から九州の祖父母に救出される小六の二月まで「村」にいた現在中一の 少女の話は、大介の証言を裏付けるものだった。

「男子も女子も関係なくぶたれた。夜寝るとき、騒いでいたというだけで、五年生だ った女の子が階段から突き落とされたことがあった。階段の上から下まで転がって いって……恐ろしかった。

 体罰は直接の暴力以外に、ヤマギシ会独自の個別研鑽と言う方法がある。これ は誰もいない部屋に一人入れられ、朝から晩まで何日間かにわたって、正座の 姿勢で反省を迫るというものだ。

 食事は部屋で一人で食べなければならず、仲間が様子を見に来ることも許され ない。部屋の入り口の襖が鉄格子であったならば、独房と何ら変わりがない。 実際、子どもたちは個別研を「監獄行き」と呼んでいた。個別研になると、学校に は「村」から病欠届けが提出される。

 しょっちゅうやられていたという大介は一ヶ月にわたって学校を欠席させられたこ とがあった。先の中一の少女の証言によれば、こんな個別研も行われている。

「小四から小五の二年間にわたって個別研を受けていた子がいた。この子は学校に は通っていたけど、個別研の部屋から学校に行き、戻ってくるとまたその部屋に入っ ていく。いつもひとりぼっちだった。学校には通っているから、外からみれば個別研 を受けているってことは、わからないでしょうね」

 世話係りによって周囲に悪影響を及ぼすと判断された子どもは、学園から排除さ れ、仲間とは別の特別に設けられた施設から学校に通う。この子もそのうちのひ とりなのか。それにしても、二年間にも及ぶ孤独な生活を送っているこの子の精 神状態が気にかかる。

 ヤマギシ会は昨年、小中学校設立の認可を求めて三重県に申請書を提出した。 それがきっかけとなって、三重県のヤマギシ会の「村」から県下の学校に通う小 中学生にアンケート調査を行った(回答者は約四百人)。それによれば、小学生の 八五%、中学生の八〇%が世話係から暴力を振るわれ、小学生の六六%、中学生の 八一%が個別研を受けていた。なんと五人に一人がヤマギシから脱走を試みた経 験があった。

「そりゃあ、世話係が殴ったことはあるかもしれませんよ。でも、腹を立てて殴ったわ けではなく、叱っただけのことですよ」

 ヤマギシ学園幹部はかつてこう私に話したことがある。ヤマギシ会もエホバの証 人と同じように体罰という認識はあっても虐待しているとう意識はない。

 善意の人たちがよかれと思ってやる行為ほど恐ろしいことはない。

 虐待は子どもたちにどんな影響を及ぼすのか。エホバの証人の虐待を調査した 服部雄一はこう指摘している。

「アメリカの文献ではカルトで育てられた子供が人格障害、情緒障害、うつ病、あ るいは多重人格を発病する例が報告されている。今回の自殺、摂食障害、心因 性の身体症状、破壊衝動などが報告された。ある回答者は、脱会後の子供の対 人恐怖の問題を報告してきた」

 心因性の身体症状の一つに含まれるが、子どもが突然失明したことを訴えていた 親もいた。

 ヤマギシの子どもは、親ではなく、赤の他人から虐待を受ける。そのため、影響は より深刻だと思われる。阪神大震災や地下鉄サリン事件で有名になったPTSD(心 的外傷後ストレス障害、裁判所も認定した精神障害名)になっていると推測できる が、取材に応じることができるのはストレスを外に発散できる比較的症状の軽い子 どもばかりである。

 こんな気になる話を聞いた。五歳から四年近くヤマギシにいて、こちらの社会に戻 ってきた子どもの話だ。この子の担任になった女性教師が話してくれた。

「突然、理由もなく暴れ出すんです。最初は『てめえぶっ殺すぞ』。それから『死んでや る』。次に『僕が悪いんだ』と言って、頭をコンクリートにぶつける。そして最後には私の 胸をまさぐったりして甘えるんです」

 このケースを服部に話すと、こう推論した。

「その子に暴れたときの記憶があるかが判断のポイントになります。なければ、多重 人格に陥っているとみて間違いない。暴れていたときは、人格が別の人格に交代し ていたということになります」

洗ってもとれない臭い

 九五年にアメリカで出版された『カルトからの回復』(編者マイケル・D・ランゴン米国家 族財団専務理事、未邦訳、同書からの引用は翻訳家藤井礼子氏の訳)によれば、カ ルトによる子どもの被害は二つあり、それは「虐待」と「ネグレクト(放置、粗略な扱い) だという。

 エホバの証人とヤマギシ会が虐待型だとすれば、いくつか虐待の事実はあるもの のオウムは基本的にネグレクト型といっていい。学校に行かせなかったことがその 最たるものだろう。

 オウムの子どもの生活はヤマギシ会と同じである。親と切り離され、世話係のもと で子どもだけで暮らす。子どもたちが所属する組織「子ども班」はヤマギシ会の学 園に相当する。

 一日の生活は、蓮華座を組みながらマントラを唱える。「オームナマ グルヤ オー ム ナマ シャヴァヤ(グルとシヴァ大神に帰依し奉ります)」などの章句を唱えなが ら立位礼拝を行う。麻原が悪と戦いながら世界を救うといった内容のアニメビデオを 見る。これが毎日数時間繰り返され、施設によっては申し訳程度に勉強させるところ もあったが、あとは施設内で放置されていた。

 子どもと一緒に出家したことがある田辺もと子(三五)が話す。

「世田谷にあったアパートの一室には十五人前後の子どもが押し込まれていた。寝ると きはそこに毛布を敷き詰め、サリン騒ぎになってからは毛布はなくなり、段ボールの上 に服を着たまま寝ていた。そこらじゅうにゴキブリの糞が落ちていました」

 警察の捜査が開始されると、子どもたちは親がいる亀戸の施設に移動させられた。 「亀戸の道場は部屋全体が湿気ていて、ホコリとカビとゴキブリだらけでした」

 やはり子どもと一緒に出家した黒木圭子(三二)もオウムは不潔だったという。看護婦 だった彼女は医療班のメンバーとしていくつかの施設を見学している。

「どこもすごく汚かった。阿蘇の波野村は畳と畳の間にかなりの隙間があり、そこに砂 や土、ゴミがいっぱい入っており、虫も徘徊していた。子どもは六、七十人くらいいまし たが、野放し状態で戦争ごっこをよくしていた。大きい子が小さい子を苛めても係りは 知らん顔をしていました」

「阿蘇に比べれば、マスコミから汚いと言われた上九一色はまだまとも。それでも第二 サティアンはダニがすごくて、全身を真っ赤にしていた子がいた。一番ひどかったのは 富士宮の道場で、もうネズミとゴキブリだらけ。食料をタッパーごとネズミによく食べら れていた」

 殺生はいけないという教義があるため、ネズミは繁殖し放題である。子どもの健康よ り教義が優位に立つから、不衛生な状態は省みない。

 看護婦の黒木は信者の医者と一緒に波野村にいたオウムの子の健康診断をしたこ とがある。

「(六、七十人のうち)下痢の子が約半数。とびひにかかっている子が十人くらい。喘息 の子が三人。爪がはがれていた子が四人くらいいました。健康状態はよくなかった」

 子どもたちの食事は、肉や魚のない仲間うちで「オウム食」と呼ばれるものが一日二 食。カルシウム計算をすると二歳児に必要な量でしかなかった。爪がはがれるのは カルシウム不足のせいだったという。

「栄養不足のため、小学校四年生が幼稚園の園児なみの身長しかありませんでした」

 ヤマギシ会も、広島弁護士会が昨年警告を発するまでは、オウムと同じで一日二食 だった。身長もオウムの子と同じように低い。黒木は栄養不足のせいで背が低いとみ るが、親から強制的に分離された結果、分泌される成長物質の分泌量が減少したこ とも影響しているのではないか。子どもたちが虐待を受けたり、親からネグレクトされ て発育不全に陥るのを、専門家たちは「愛情遮断症候群」と呼んでいる。

         

 もう一つ、ネグレクト型の集団を紹介しよう。

 昨年の十月七日、近鉄名古屋駅で当時五歳の女の子、川辺愛子が祖父母と叔母の 手によって保護された。

 愛子は薄手のインドの民族衣装に、素足に直接運動靴といういでたちだった。身体は むくみ、痩せていた。祖父母が抱き抱えたとき、ホームレスの人から臭ってくるようなす えた臭いが身体から発していた。名古屋から祖父母の家がある札幌に向かう機内で 着替えさせたが、叔母の話によれば下着がとても汚かったという。その夜、風呂に入れ 身体を洗ったが、臭いは取れず、翌日にもう一度洗い、それでようやく消えた。あとで わかったことだが何十日間も風呂に入れられていなかった。

 愛子がそんな風になったのは、両親がそれまでの生活を捨て95年7月にライフスペ ースという集団に入ったからだ。両親とアパートで暮らしていた時期もあったが、次第 に両親とは離れ、世話係によって他の子と一緒に育てられるようになった。

 「ライフスペースを考える会」の調べによれば、「昨年の十月段階で子どもは都内に合計 約二十人、名古屋のマンションに五、六人いた。その子たちの多くは今年の一月にスペ インのマジョルカ島にあるライフスペースの施設に移った」という。子どもたちの中には義 務教育適齢期の子どもがいるが、学校に通っている形跡はない。そのうちの一人はかつ てヤマギシ学園にいたことがあったという。

 ライフスペースはもともと税理士の高橋弘二が始めた自己啓発セミナー会社だった。 数年前から高橋弘二自らグルと名乗り、セミナー生一人一人のビジョン(職業を含め その人個人の生まれてきた目的・役割)がわかると宣言するようになった。ライフスペ ースは自称グルと、グルのビジョンを信じる集団ということになろうか。

 愛子のケースもオウムと同じように、放置状態だったといっていいだろう。祖父母が救出しようと決意し たのは、「来年は小学校に行く年齢に達する。学校に行かせて欲しい」と頼んだのに対 し、両親が「日本の学校には行かせない。サイババの学校にやる(実在しているかどう かは不明)」「子どもは親の子ではなく、サイババの子、グルの子だ。子どもは三歳になったらダッ コをせず、大人として育てる」と答えたからだ。

 叔母は「子どもたちは一日中部屋の中 にいてお絵描きをしたり、インドの楽器を使った歌の練習をしたりしていたようだ。食事 はコンビニとかパン屋での買い食いだった」と振り返る。あとで取り消してきたが、愛子 の親は祖父母にこんなことを頼んできたことがあった。

「活動の邪魔になるので、愛子を実家で預かってくれないか」

 ある日突然、親と切り離され、放置される。虐待と同じように、この衝撃的な体験は子 どもの心に傷をつける。その後、子どもがPTSDに陥ったとしても何ら不思議ではない。

俺はサタンの餌食

 虐待型、ネグレクト型を問わず、カルトの子はある特殊な価値観を注入される。

 エホバの証人はこの世はサタン的であると信じている。そのため、オウムやヤマギシ ほどではないが、子どもをできるだけ社会と接触させないようにしている。宗教活動 に時間が使えないという理由が加わって、幼稚園に通わせなかったり、学校の部活 動を禁じている親は少なくない。ある二世は「子どもの頃、母がいないときに友達を 家にあげることも禁止されていた」と語った。

 このような社会と遮断された中で、教えの刷り込みが行われる。会衆単位での集会 が週に三回、家庭や数家族単位での聖書研究会が週に二回。これに街でよく見か ける親に連れられての伝道活動が加わり、トータルすれば最低でも週に十五時間、 月にして六十時間、独特の世界観を叩き込まれる。

 これと並行して、ムチを背景にした戒律の遵守が強制される。有名なのは輸血の禁 止だが、戒律はこれだけにとどまらない。理由は説明しないが、子どもに関係するも のをランダムに列挙する。

クラス選挙。オナニー。君が代・校歌斉唱。プロレスごっこや柔剣道などの格闘技一 切。格闘やラブシーンの場面が出るテレビ・映画。鯨肉の摂取。クリスマス・正月・七 夕・節分といった行事すべて。年賀状。焼香。煙草。ロック。ジャズ。ドラッグという歌 詞がでてくる音楽すべて。エホバの証人を批判する情報。寺や教会の敷地内に立ち 入ること……。

 本人の意志で信仰生活に入り、戒律を守るのは自由だが、それを強要される子ども はたまったものではない。

 学校では「エホバ、拝み屋、クリス(クリスチャンのこと)」と揶揄の対象となり、その結 果「学校では、いつもひとり、ぼつんとしていた」「家でムチを打たれ、学校では暴力を ともなうイジメ。毎日胃が痛かった」ということになる。

 その一方で、暗いニュースが流れるたびに「ハルマゲドンは近い」と囁かれ、毎日の ように聖書の文句を刷り込まれ、戒律の日々が果てしなく続けば、いつしか立派なエ ホバの証人に育っていく。二十二万人の信者のうち半数近くが二世だとみられる。小 さな脳にイデオロギーが刷り込まれてしまうと、教団から去っても影響を拭いさるのは 容易なことではない。

 教団に疑問を持ったエホバの証人の二世は、教団特有の聖書解釈の間違いを正す ためにあるキリスト教の牧師を訪ねた。

 キリスト教会はサタンの組織そのものだと教え込まれている。この二世は、十字架を 見ただけで足がガタガタ震えたという。教会に足を踏み入れるときは、瞬間、こう思っ て顔が青ざめた。

「俺はひょっとしたらサタンの餌食になろうとしているのではないか」

 同じ二世の三十三歳の看護婦は、高校を卒業し親元から離れたことをきっかけにエ ホバの証人をやめ、今では教団を批判的にみるようになっている。

「今でもハルマゲドンが来るのではないかという意識を取り去ることができないんです。 エホバの証人がカルトだと認識するようになっているのに……」

 元オウムの女性信者は出家時代に強いショックを受けたことがある。

 それは三歳になったわが子に尊師とママとどちらが大切かと聞いたところ、子どもが 「尊師!」と答えたからだ。

 麻原が逮捕されたとき、保護された子どもの多くは児童相談所にいた。そのテレビを 見て、一人の子どもはこう叫んだ。 「(権力の)陰謀だ!」

 オウムから離れても、いまだ麻原の写真を財布に入れている子どもがいても不思議 ではないのである。

               

 子どもたちがカルトから回復するのは容易なことではない。大人に対する救出カウン セリングの研究は一部の牧師や僧侶の間で始まっているが、子どものことについて はまるでわかっていない。カルトが本場のアメリカでも、前出の『カルトからの回復』 では「子どもたちの心理的な治療についてほとんど何も知らないと言っていい」と正 直な告白がなされている。

 難しいのは心の傷や刷り込まれたイデオロギーばかりではない。カルトから離れた 子どもたちがまず直面するのは「現実社会」である。

 十五歳から二十三歳までヤマギシにいた大阪の渡辺春樹(二八、親は村人)は、社 会に出て唖然とした。

「学園で育てば競争社会の学歴なんかなくても、何でも出来る人間になる。そう教えら れてきたのに……世間では単なる中卒の青年に過ぎなかった」

 彼の自信は急速に萎え、不安に脅えるようになった。それから、現場労働に携わり ながら猛烈に資格を取り始めた。ガスの溶接、電気溶接、移動式クレーン車などの 免許、危険物取扱者、医療電子機器取扱者、家庭物理療法士、英検四級などだ。 今は職業訓練校に通うが、コースは中卒コースしか選ぶことができなかった。

 春樹が唇をかみしめながら悔しそうに語った。

「テレビで甲子園野球や箱根駅伝を見ていると、高校生や大学生がうらやましくて、 涙が出る。俺は八年間何をやってきたんだと……」

 ヤマギシを出た子の仕事先は建設作業員、車の整備工場、バー、精肉店、葬儀屋、 建設会社、焼き鳥屋、そば屋、タクシー、トラックの運転手といった学歴を問われない ものばかりである。みんなで集まって酒を飲むときまって「職場で高卒や大卒がいる とムカツク」という話になる。

デートで何を話せばいい

 エホバの証人では高校進学を認めている。だが、進学の目的は「伝道訪問を続ける 糧を得るため」でしかないのだから、多くは実業高校か通信教育の高校だ。子どもた ちの心もハルマゲドンがくるという恐怖感と諦めがあるから、周囲の反対を押し切っ てまで大学受験に取り組むのはごくわずかである。組織から離れた場合、やはり職業 を選択する自由は限られている。音楽の道に進みたかった、大学にいきたかったと、 子どもたちは落ち込む。

 学歴がないことに加え、幼児期からカルトで育った子どもは社会のことを知らない。 子どもを連れて家々をまわるエホバの証人は私たちと同じ地域で暮らし、隔離されて いたわけではない。

「確かに同じ社会に暮らしていますが、僕たちは別の空間に生きていたんです。そ りゃあ、近所の人には会釈ぐらいはしますが、そういう人たちは私たちには救出の対 象でしかない。学校では一人ぼっち。その後も付き合うのはエホバの証人だけ。です から、この世に生きているけど、この世のことが全くわかっていないんです」

 こう話すのは、愛のムチの厳しさを証言してくれた埼玉の岡田良平である。彼は前に 触れたように三歳から三十歳までエホバの証人にいた。

 良平は教団を離れてから運送会社に就職した。しかし、居酒屋やパチンコ店、カラオ ケには入ったことがないし、馬券を買った経験もない。同僚とのつき合い方がわから ない。ようやく居酒屋には慣れたが、今度は話題を提供することができない。野球や サッカーのテレビを見たこともなければ、旅行に行ったこともない。相手は若い頃の 話を持ち出し、その頃流行っていた歌謡曲の話をしはじめる。良平は何も知らないか ら、ただ相槌をうつだけ。「おまえ、何も知らないんだな」と呆れられる。

 会社の宴会が終わりに近づき、みんなが立ち上がり始めた。司会者は「関東一本締 め」で宴会をお開きにすると告げた。良平は何のことかわからない。何事が始まるの かと不安になったという。

 婚前交渉はもとより、独身男性がみだりに独身女性に近づ くことさえ教団は禁じている。そのため女性と付き合った経験がほとんどない。

「一度、女の人とデートしたことがあるんですよ。何を話して良いのかわからなくっ て息が詰まりそうでした。三十四歳になりますが、こんな僕でも結婚できるんでしょ うか……」

と良平は不安そうに話した。

「中学生の頃、俺はどう生きるか、どんな人間になりたいかって考えますよね。僕は 組織を離れた三十歳のとき、はじめてその問題に直面したわけです。三十歳なのに 中学生レベルだったんですよ」

 話題がなくて困ったというのは、箱根駅伝に涙するというヤマギシの渡辺春樹も同じ である。

「バブルって言葉がわからなかったし、ベルリンの壁、ソ連の崩壊、湾岸戦争の知識 もない。昔の話をされると、いつも困りました」

 話題の他に言葉づかいにも気をつかったという。

「ヤマギシにはありがとうという言葉が存在しませんでしたから、ありがとうとか、 どうもとか、意識しないと言えないんですよ」

 親の洗脳がとけ、子どもをヤマギシから引き取るケースは少なくない。子どもは虐待 から解放されてうれしいはずなのに、不登校になってしまう場合がある。これにも 「話題」が関係する。

 ヤマギシには存在しなかったゲーム、ファッション、タレント、受験情報などが、学 校の教室では飛び交っている。カルトに長くいた子には学校が「異空間」に映る。そ れで、戸惑いを感じ、学校に行きたくなくなってしまうのである。

 エホバの証人の岡田良平とヤマギシの渡辺春樹は共通した経験をもつ。それは会 社の上司からの小言である。

「俺から言われたことはハイ、ハイとその通り素直にやるけど、おまえは自分で提案 したり、意見をいったりすることがない」

 どきっとさせられるほど鋭い指摘である。

 カルトでは組織の教えが絶対的であるため、自分で考えて判断する力が必要とされな い。それどころか大人に服従する子どもが良い子とされてきた。命令に従い依存して いれば殴られる恐怖を味わうこともない。カルトに長くいた子どもは「自分で考える 力」、批判的精神が育っていないのである。だから、社会に出ると、言われた通りの ことをやるしかない。

 さらに深刻な例もある。話すのはヤマギシの「村」で生まれ二十歳のときに外に出た 女性である。

「ヤマギシでは研鑽できまったこと、といっても実際は世話係の命令にすぎないんで すが、ともかく言われたことに従っていればよかった。長い間、そんな生活をしてい たため、社会に出て自分で考えようとすると、すぐに心にロックがかかり、罪悪感の ような気持ちが湧いてくるんですよ」

『カルトからの回復』でも、自分で考える力がないことが社会復帰を防げる大きな要 因だと指摘している。

              

 社会への適応より困難をきわめるのは親子関係の回復である。

 一般に、とりわけ幼少期にある子どもは親が絶対的な存在であり、親も自分が絶対 的だと信じている。絶対的な関係(愛情)のもとで、子どもは安心して成長してい く。ところが、カルトの一員になると、親にとっては子どもではなく、ある人物や組織 (またはそれらの教え)が絶対的になっていく。「親―子」の関係が「カルト―親― 子」の関係になり、子どもの言葉で表現すれば「お父さんやお母さんは私のことが大 切ではないんだね」ということになる。

 青山悠太(中二)は五歳のときに親が村人になったのにともないヤマギシ学園に入れ られた。三歳からの喘息はさらにひどくなり、アトピーが出るようになった。低学年 のときに耳鳴りがかなり長く続いた。親は病院に連れていったが、耳鼻科では器質的 には問題ないとされた。小四のときには十ヶ所近く円形脱毛ができた。

 母親が当時のことを振り返る。

「今にして思えば、ストレスが原因だったんでしょうねえ……視力が弱くなり、眼 科に連れて行ったことがある。視力は落ちていない、眼の機能に異常はないと言われ た。視力の低下は二年間続いたはずですが、このへんの記憶はあいまいです」

 ヤマギシは執着心(我執)を捨てよという。彼女は「子どもの幸せを願って学園に 送ったんですが、今から考えるとヤマギシにいたときは確かに子どもへの関心は薄れ ていた」と話す。執着心を捨てよとは、オウムの教えにもある。オウムの親たちもヤ マギシの親と同じように「自分の生き方のほうが優先していた」と振り返る。

 子どもがが心因性の身体症状を示していてもそれに気がつかないのは、組織の教えを絶対 的なものだと信じ、子どものことが見えなくなっているからである。見えているのに 見えていないという盲視(原因は側頭葉の機能障害)と似た症状である。ヤマギシの親 たちは、三重県のアンケート結果が示されても「嘘だ」といまだ信じていない。

 悠太がヤマギシを出たのは小五の終わりだった。母親が組織に疑問を抱いたからで ある。六年振りに社会に戻り、再び家族と暮らすようになった。

 この二年間、自殺と脱走を考えたこと、世話係を困らせようと万引きを試みようとし たこと以外、ヤマギシでの体験は一切口にしていない。自殺や脱走についても、動機 には口をつぐんでいる。集団内での体験を親や親族に話さないのは、他のカルトの子 にも共通する現象である。

 親には話さないが、悠太は母親が頼んだ家庭教師にこんなことをしゃべっている。 「自分は親に捨てられた」「親は俺のことなんかどうでもよかったんだろう」

 悠太は小六になってから母親に暴力をふるうようになった。顔にアザができるほどの 暴力だった。興奮した母親が「出て行け」と叫ぶと、マンションから飛び降りようと した。母親があわてて止めると、「僕なんかいないほうがいいんだ」と泣きじゃくっ た。こんなことが二度あった。

 中一になってから、母親に包丁を突きつけたことがある。母親が振り返る。

「このときばかりは度胸がすわりましてね。『刺すんだったら、やってみろ』と叫び ました」

 この日以来、悠太は母親に手を出さなくなった。母親が真剣に自分に向かってきたこ とがわかったからではあるまいか。

 悠太の家族以外にも凶器を突きつけたケースはあと二つほど聞いているし、凶器をと もなわない家庭内暴力となると例はもっと多い。

 ヤマギシにいた子どもに共通するのは「親に捨てられた」という強烈な意識である。 親たちがどんなに謝罪しようが、その意識が忘れ去られることはおそらくないだろ う。私が心配するのは、こうした子どもが親になり、子どもを持つようになったとき だ。いったい、どんな子育てをするのだろうか。

  それを暗示させるような話を、エホバの証人の子どもだった人から聞いた。

 彼女(三四)は小さいときから母親から虐待を受けた。「母親が怒るとキレた感じに なって、とても怖かった」という。彼女は教団から離れて十数年になる。

 いま小一の女の子の母親になった彼女は苦しそうに話した。

「どうしても子どもに手が出るんですよ。一歳になったときから叩くようになってし まったのです。もちろん、親の影響だとはわかっています。それでも手が出てしまう んです。夫が見かねて、子どもを取り上げる。それで救われるのですが……」

「私を捨てたりしないでね」

 親がいまだカルトの一員で、子どもが教団に批判的になった場合は悲劇としかいいよ うがない。エホバの証人のとりわけ狂信的な信者になると、子どもがついにサタンに 取り憑かれたと判断する。そうなると教団を前提にして成立していた親子関係は崩れ る。子どもは学校を中退し、別の住処に移り、アルバイト生活を送るようになる。

 保護されてから五年が経過するというのに、いまだ養護施設で暮らすオウムの子もい る。この子はオウムに批判的だが、親は今でも熱心な在家信者である。このため、子 どもは親の家に戻ろうとしないし、親も引き取ろうとしない。関係が修復できない状 態が続いているのだ。

 子どもが教団に染まり、親が批判的というケースもある。麻原の写真をいまだ離さな いという深沢美佳には二人の弟がいる。二人はサティアンにいるところを警察に保護 されている。父親の深沢が児童相談所に行ったときのことだ。

「三人の子どもが僕と目を合わせようとしないのです。完全に無視ですよ。私はわり あい早くからオウムに批判的になり、裁判を含め子どもの救出に奔走していましたか ら、オウムでは私のことを極道非道、世界を滅亡させる人間のように宣伝していた。 子どもたちはそれに影響されたのだと思います」

 三人が養護施設に移ってから、深沢は必死になってお土産をもっていったり、外に連 れ出しレストランで食事をしたり、一緒に野球をしたりした。

「六ヶ月以上経って、ようやく子どもの心が自分のほうに向いてきたなと手応えを感 じた」

という。子どもが家に戻ってからは、集団登校の決まりがあったものの、毎日 学校の送り迎えを続けた。保育園、幼稚園ならともかく小中学生の送り迎えを仕事を しながら毎日するのは、並大抵の決意ではできないことだ。深沢が心底嬉しそうに話 した。

「娘の美佳はまだまだだし、三人ともオウムでの体験を口にしません。下の男の子た ちが離婚した母親のことを一切話さないのも気にかかる。それでも男の子たちは私を 信頼するようになったと感じます。家族がオウムに出家したのは私がきっかけでした が、オウムを経験して、たったひとつだけ良かったのは親子関係の大切さを学んだこ とです」

 心和む話を聞いていると、一番下の男の子が顔を出した。愛らしい、やさしい顔だっ た。こちらを気にしながら、深沢にこう話した。

「お父さん、ファイナル・ファンタジー[を買ってくれない?」

 端正な顔つきの深沢の表情がだらしなく緩んだ。

「こっちに戻ってからゲームびたりなんですよ」

           

 ライフスペースにいた愛子が笑顔を見せたのは、救出してから九日後のことだった。 一ヶ月間は、ちょっとしたことで取り乱して泣いた。

 いま、ようやくふつうの女の子になりつつある。それでも、家族がどこかに出かける と、「必ず戻ってきてね、絶対だよ」としつこく言う。「私を捨てたりしないでね」 と訴えたこともある。

 叔母に会った後、祖父母の自宅で愛子に会った。えくぼがかわいい愛くるしい子ども だった。母親が子どもの頃に着ていたという正月の晴れ着を着て大はしゃぎだった。 あまりにも愛らしいのでみんなが微笑んだ。私も声を上げて、笑ってしまった。

 祖父母からすれば、自分の娘に買ってやった三十年前の晴れ着を孫が身につける。 それはうれしい。でも、自分の娘は手の届かないところへ行ってしまっている。

 笑い顔しか見せなかったが、祖父母の心情は複雑だったに違いない。

 この日、神社で買ったというお守りを口元に近づけ、愛子は囁くようにお祈りをし た。

「ママの魔法がとけて、早く戻ってきますように」

          (子どもとその家族は仮名とした)  1